【大磯のお寺 東光院】湘南にある東寺真言宗の寺院

 没後1000年以上に渡って語られ、信仰され続ける真言宗開祖です。
東光院の歴史 東光院の昔の地図
空海とは

平安前期,真言宗の開祖。
讃岐国(香川県)多度郡の郡司,佐伯氏の出身。母方は阿刀氏。
15歳で上京して母方の叔父,阿刀大足に師事し,18歳で高級官僚養成のための大学に入るが,まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめる。
24歳の処女作『三教指帰』(797)の序に,ある出家から虚空蔵求聞持法を教示され,四国の大滝岳や室戸崎などでの修行によって効験を得た,とある。
これを転機として,空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられた。
そして31歳,第2の転機にめぐりあう。先進文明国,唐への留学である。2年間の留学から帰国した大同1(806)年を境として,空海は無名の人から最高度に著名な人物に変身をとげ,真言宗の開祖への道を歩みはじめる。帰国直後からすでに高名な最澄との交友がはじまり,最澄は密教修学のため空海に師の礼をとるが,10年後の弘仁7(816)年に,ふたりの交友関係は決裂に終わる。
注目されるのは,この年に空海の申し出によって高野山が下賜されたこと,またこのあたりから旺盛な著作活動が開始されたことである。
著作の皮切りとしては『顕密二教論』(816頃)があり,晩年の主著として『十住心論』(830)がある。『十住心論』は,宗教意識の発展段階もしくは人間精神の安住の水準を10段階に分け,東アジアの主要な倫理的・宗教的思想を各段階に配当して,仏教を他の思想の上位に位置づけ,仏教のなかでは真言密教を最上位に位置づけている。
こうした晩年の構想がすでに処女作『三教指帰』に萌芽として示されている点に注目したい。『三教指帰』は,儒教,道教,仏教の3教をそれぞれ代表する亀毛先生,虚亡隠士,仮名乞児が次々に登場して,ならずものの蛭牙公子に教え説くという筋立てで,読者を蛭牙公子の最低水準から,亀毛先生,虚亡隠士の中間水準を経て,仮名乞児の最高水準にまで導く形になっているのだが,『十住心論』は,蛭牙公子の水準を第1住心,亀毛先生(儒)の水準を第2住心,虚亡隠士(道)の水準を第3住心とし,仮名乞児(仏)の水準を第4住心から第10住心までの7つに細分化している。
7つのうち,第4(声聞)と第5(縁覚)は小乗仏教,第6から第10まで(法相・三論・天台・華厳・真言)は大乗仏教,第10の真言だけが密教で,ほかの6つは顕教とされている。
『三教指帰』では,仏教が人間精神の到達しうる最高の水準とされたが,『十住心論』では,仏教のうちの密教のみが最高とされた。
両著作は,このような構造的対応関係を示しているばかりでなく,その根底に迷悟不二の思想を共有している。
こうした事実は,空海の晩年に到達しえた体系的構想が,たんなる借りものではなく,青年時代から長い年月をかけて育てあげられた独創的な思想であることの証であるといえよう。

弘法大師は生きている?

高野山奥の院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。 現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている[7]。 このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。 このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多い。


 東光院で地域の人々を守護してきたご本尊と仏像群のご紹介
東光院の本尊と仏像 東光院の仏像達
真言宗とは

真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。
空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。
同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は著作「秘密曼荼羅十住心論」(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)、「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。
最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。 天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教を「東密」と称する。
真言宗の密教は東寺を基盤としたので「東密」と呼ばれた。

真言宗の教え

真言宗の教えの大きな特色は「この身、このまま、この世において成仏する。成仏している」即ち「即身成仏」を説くところにあります。特に空海は、紀元4世紀頃のインドでヒンズー教との融合の中から成立した『大日教』『金剛頂経』などを根拠とした、『即身成仏義』の中で、父母から生まれたこの身このまま仏果を証し、仏身を成すことが出来ると述べています。  空海は宇宙の実体を観察した後、「体大(本質)」「相大(現象)」「用大(作用)」の3つの視点より分析し、その体は六大であり、相は四蔓であり、用は三密であると考えています。まず六大とは「世界はすべて、如来の象徴である地・水・火・風・空・織の六要素から成る」と考え、現象の世界である相は4種類の蔓茶羅9「蔓茶羅」とは梵語のマンダラを音訳したもの。本質のマンダラと所有のラ、即ち「本質を持っているもの」を意味する)即ち、四蔓で表われるものであって、離れること無いと説いています。そして、その宇宙の真理を体現している仏の身体と言葉と心意の三つの活動は、 我々衆生の身語意が三業と呼ばれるのとは異なり、極めてこまやかな関係で結び付いていることから三密と言います。しかし、衆生の身語意も仏の三密と本質的には一体であり、手に印を結び、口に真言を唱え、精神を統一するなら、仏の三密と相応して、速やかに悟りの完成、「即身成仏」を得ることが出来るとしています。そうした意味において、三密の教えは如来と一体になる為の実践編とも言えるでしょう。

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