住職を拝任するにあたって
寺に生まれ
お寺で生まれるというのは不思議なものです。お盆やお正月は多くの子供達にとって旅行や帰省がやってくる楽しい時間ですが、私にとっては檀信徒の皆様の亡き人や、先祖に対するお心をまざまざと感じる時間でした。東光院という三百年以上の時間を地域と共に過ごしてきた場所の力を感じる時間です。寺とは私の生家であり、皆様の場所でもあります。
そのような環境で私自身がいつかこの寺を継ぐのだと意識したのは、本山での修行へ向う前年の施餓鬼会で皆様に拍手と共に送り出して頂いた時でした。嬉しくもあり、不安でもあり。ただ漠然と寺とは何だろうか?僧侶とは何だろうか?という疑問を抱えたまま修行が始まりました。
本山での修行では仏道へのスタート地点に立つための心構えを教わりました。ただどの様な僧侶になればよいのか?どの様なお寺にしてゆけばよいのか?という事を学ぶには短いものでした。
寺から出ることで縁が広がる
東光院へ戻り少しした頃から、今寺務として務めてくれている昇空が東光院へ関わってくれるようになりました。昇空は地域の人は十分にご存じだとは思いますが、かなり変った人柄です。寺の常識の外の目線と合理的な考え方と気持ちを持った人でした。昇空は祭りが好きで、人が好きな性格で今まで参加してこなかった地域の祭りや地域活動に私を引きずり回し、地域の多くの縁を紡いできました。また寺で飼い始めた柴犬の「空」が散歩を通じて多くの人と縁をつないでくれました。
寺から出て見えてきたもの
そのような縁の中で本堂にグランドピアノを運び込んでのジャズライブやヨガ、朗読会、映画祭など多くの地域行事や文化活動を行なう寺になってゆきました。寺から出て地域に参加してゆく中で、檀信徒の皆様からは直接お聞きすることの出来ない東光院や寺に対する耳の痛い評価や多くの人に求められている寺のイメージを感じながら寺とは何だろう?僧侶とは何だろうか?という疑問が自分の中で大きく大きくなってゆきました。
そして地域に出て行く一方で、僧侶として多くの檀信徒様のお葬儀や法要を務めさせて頂きながら多くのことを学び、感じ、考えさせて頂きました。
できる事があったはず
ある檀信徒様は、お寺のすぐ近くで一般的には孤独死といわれるような状況でお亡くなりになりました。ご親族や隣近所、親しい方達の心の痛みや寂しさ、悔やみは大きく、私自身も寺や私が出来たことがあったのでは無いのか?という想いを抱きました。いや寺だからこそ僧侶だからこそ出来たことがあったはずなのではないか?と。
葬儀の意義とは
そして私が小さな頃からお世話になってきた乳母のような立場の「松本さん」の死に立ち会う事が葬儀を見つめ直す大きな機会となりました。「松本さん」は病と闘いながらご家族に支えられながら最後は千葉の病院でお亡くなりました。生前から子供同然の私に葬儀を執り行って欲しいと要望をうかがっていました。
ご家族の力になりたい。ご負担を減らしたいという気持ちから葬儀社の直葬プランというご遺体の搬送と納棺・出棺、諸手続のみの二十万円程度のプランでご提案し、千葉の公営斎場を利用した葬儀をおこないました。葬儀社の司会などもちろんありません。僧侶である私が祭壇の準備や司会も務めました。それ以外のタクシーの手配などの雑務は昇空がおこないました。縁のある私達が葬儀の準備から葬儀社の手配、食事の手配をお手伝いすることで、通夜葬儀の前後二日間ご親族に寄添う葬儀となりました。費用の部分でご負担を軽くするつもりで務めさせて頂いた葬儀でしたが、結果としてご親族と共に故人をお送りする事でき、葬儀の意義を強く感じられる葬儀となりました。
ご家族と共に葬儀をおこなう
多くの葬送を務めさせて頂くことで、葬儀会場に読経へ伺うだけでは見えなかった葬儀の意味を強く感じるようになった頃に、東光院のある大磯の下町で遊漁船を営む与宗丸のお爺さん「与宗爺」のご葬儀を務めました。「松本さん」の葬儀より、お寺や僧侶が積極的に葬儀をサポートする葬儀の意味を感じていましたので「葬儀社任せでなく私達と一緒に東光院の本堂で葬儀をしてみませんか?」とご提案しました。ご親族は、是非と仰って頂き「与宗爺」の葬儀が本堂で行なわれる運びとなりました。火葬場の都合上「与宗爺」の葬儀は一週間ほど先となり、その間、東光院の客殿でお待ち頂く事となりました。客殿には与宗丸の大漁旗を掲げ、枕飾りには「与宗爺」の好きな物が並びます。毎朝、棺の前で手を合わせて一日が始まりました。毎日ご家族が訪れ、名物お爺さんだった「与宗爺」に地域の方達や、法事をおこなうために客殿のお隣の部屋でお過ごしだった方々がお線香を手向け、手を合わせる姿を見る特別な一週間となりました。
ご家族の思いを感じる一週間
通夜の前日、お施主様から最後の機会だから「与宗爺」を囲んで飲みたいというご要望があり、更に私と昇空に出席して欲しいとの事でした。その飲み会は「与宗爺」の逸話が飛び交いながらも、悔やみと笑いに満ちていました。私達も「与宗爺」を中心とした笑いと悲しさの空気を感じながら本当に「与宗爺」が亡くなったことを感じて胸が一杯になったことを今でも憶えています。そして通夜の法話の席で僧侶になって初めて感情を抑えきれず泣いてしまいました。相変わらず食事の手配などバタバタと忙しい葬儀でしたが、このように皆さんと悲しみや寂しさを感じながら一緒にご供養する僧侶やお寺でありたいという気持ちを強く持った一週間でした。
僧侶にとって葬儀は日常
皆様にとってはなかなか関わることの多くは無い葬儀と、その後に続く法事は僧侶には日常です。私と同じ年齢の方で、これほど死と人の縁に包まれながら日々を過ごしている方は多くないと思います。お寺や僧侶を仕事として家業として捉えることも出来なくはないですが、そうした日々の中でそれが僧侶だとは私には思えなくなっていました。そもそも僧侶は仕事や家業と捉えてはいけない。それは沢山の檀信徒の皆さんや地域の方と過ごす中で、長い時間をかけて培ってきた東光院の歴代の僧侶や供養の意味というものを学び始めたのだと思います。
隣に寄添う日常でありたい
昨今、様々な事情で葬儀や法事の簡略化や形骸化が進んでおります。それは、それを執り行う私達僧侶が日々強く感じる変化です。ただその一方で今の国家という枠組みが出来る前から、数百年という単位で続いてきた営みに意味が無くなってしまったわけでは無いと感じています。本当に意味が無いなら寺も僧侶もいりません。ただ長い時間をかけ凝り固まった僧侶や寺院が皆さんのお気持ちや状況、ご要望にお答えできていないという単純な理由だと思っています。
ですから大切にするべきものをより良い形に、変えるべきものを変えられる寺と僧侶になることが出来たら東光院はまた百年という時間軸で皆様の隣で寄添うことが出来るのではないかと感じています。またその様にご縁を頂いた皆様に、困ったことがあれば頼って頂ける僧侶になりたいと心の底から願っています。
発心(ほっしん)
そして、そういう僧侶としての自分自身に気づいたときに発心(ほっしん)という仏教の言葉を思い起こしました。発心とは悟りを得ようとする心を起こすこと。菩提心(ぼだいしん)を起こすことをさし、この発心を心に出家をするのが僧侶です。そういう意味では寺に生まれるだけでは僧侶とは言えません。発心してこそ出家の意味があります。
皆様に送り出して頂いた十二年前のお施餓鬼会では、自分が何になるのかもわからない不安を抱いていましたが、多くの檀信徒様、地域の皆様に支えて頂く事で、そのような発心を持ち、心から修行に励みたいという想いをもてたという事に感謝しております。
寺や僧侶だからできること
この度、東光院の二十九代住職を拝任させて頂くにあたり所信表明として、何故住職という大変重要な役目を承りたいと考えているかをご理解頂ければ幸いです。
まだまだ不勉強であり、精進が足りない為に雑な文章となり恥ずかしい限りではございますが、三百年以上多くの方に支えられてきた東光院という素晴しい場所を次の世代につなぐという役割と、どの様に時代が変わっても皆様の心にお答え出来る僧侶となれるように精進させて頂きます。
きっと皆様が思われるような、話が上手で、穏やかで、読経が上手で、情に厚い理想の僧侶とはほど遠く、皆様に支えられながら皆様と勉強させて頂くことで、やっと先に進むことのできる様なこころもとない僧侶だとは思いますが、何卒よろしくお願い致します。
平成29年9月20日
東光院 住職 大澤 暁空
東光院新聞 2017年秋号より
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